砂の夏

地面を含め、およそ表面の名の付くものが全て砂になったような心持ちだった。その砂はざらざらというよりは、砂丘にあるようなさらさらとした、きめの細かい優しい質感を持っていた。かと言って実際にそうなったわけではなくて、あくまで私の想念の中での出来事であり、肥大していく液晶画面の中からしたり顔の誰かによって全国に発信されるような異常事態でも何でもない。ただただ下らない、至極下らない遊び程度の切り口でしかなかった。
しかし、それほどの渇きを求めるべき湿気が朝から溜まっているのもまた事実で、私は夏の気配をどうやっても排除することが出来なかった。扇風機を点けようが冷房を点けようが、所詮それは人が作った力学であって、本質的に私を動かすには至らない。だから私は、まとわりつく湿気を排することもせず、ただじっとしていることを選ぶのである。それは敗北なのかも知れない。何に? 疑問を提示したところで、さしたる高尚な過程も結果も得られるわけではない。日常とは、概ねこのようなものだ。

歩いて行ける距離に小売店の類があるというのは大変に幸せなことであって、だから私は簡単に堕落するのだったが、今日も太陽が役目を終えて山の端(昔の人も同じ動的過程を見ていたのだろうと思う。意味は違うにせよ)に沈もうとしている頃、冷蔵庫には当然のようにビールが無い。だから私はやはり当然のようにビールを買い求めに行くのである。歩いて。
屋外は部屋の中と違って、輪郭が曖昧で無限に広がっているような錯覚さえ私に与える。それだけ常に私の視界は模糊としているとも言えるのだったが、粘り気を帯びた日差しの下では、輪郭という言葉の意味を考えるという、私の好きな活動の一つは何の役にも立たなかった。とにかく、私は歩くしかなかったのだ。
平日の夕方の住宅地、というのは平和の象徴のような趣きさえあって、私は十分に落ち着かない。家路を急ぐ人々は総じて疲れた顔をしながら、これから浸るであろう平穏の雰囲気に、或いは精神はもう浸っているのかも知れなが、意識的にせよ無意識的にせよ心持ちを弾ませてもいるのである。緊張と弛緩。この切り替えは、私たちが浮き世を渡っていくためには必須の技術である。私はそこを曖昧にして、その上に運だとかタイミングだとかいう耳触りだけは至上の言葉を張り付けてやり過ごしてきた、という感がある。だからこそ、この住宅の群れは簡単には私を受け入れないのだろう。
もう陽は目視できなくなっていた。それでも光だけは居座って、夕方はもう少し続いていく。時々涼しいような風も吹くのだったが、まだまだ蒸していることは解決を見ず、私はまた砂の事を考えたりもしているのである。表面、というと人間には腔というものがある。口から入って肛門へと下る一連の筒状のもの、とも言い換えることが出来る。ここで少なくとも、口の中、いわゆる口腔ははたして表面として定義して、さらにそこにさらさらとした砂の存在を定義することは可能なのか、という命題が沸いて来る。可能性を否定することはできない。それは公平ではない。
私は歩を保ったまま、そんなようなことを考える。そうこうしているうちに私の体表は再度粒子状になって、口腔内も角膜もあらゆる粘膜も一切合切がさらさらと崩れ始め、いつの間にか私の輪郭はぼんやりと霞み、大気を支配する湿気にさえ抗おうとしている。私は別段それを応援も否定もしない。本来であれば砂は水分を吸収するのだろうが、私から発せられるそれにはその意思がないようである。そのかわり、ある程度の風向きや遠い騒音や薄くなった日差しや正体の見えない電波や目に見えない誰かの何らかの意志にさえも全く干渉すること無く、一定の方向に自然な、いやむしろ幾何学的と言った方が正しいような形態を為して流れていくのである。
時にその粒はすれ違う人の目に入って痛みを起こしたり、また別の人の汗ばんだ肌には無数に付着するものだったから、他人にとっては快く迎えられるものではなかった。辺りは一様に砂まみれになり、私の通った後には筋状にうっすらと砂が流れていた。まるで西洋のおとぎ話のようだなと思ったが、この道程には何の寓意も無い。一切腹の足しにはならないのだろう。それなりの歩数があるだろうというのに、そこには全くの価値が生まれないというのは少しく寂しいことではある、などと精神的な振れ幅が大きくなると、どうやら砂の排出は増えるようである。もちろん私はそんなことには一切関知せず歩き続けてゆく。

売店に辿り着いた頃には辺りは薄暗くなっており、どこかで夜の虫が形式的に鳴いてもいる。街灯はまだ灯らない。
売店も世相を反映してエネルギーを極力抑えた照明となっている様子だったが、店舗には昼も夜も灯りが点いているのだったし、どんなパフォーマンスなんだとも思う。多分、そんな事情とは全く別の世界に居るであろう高校生が数人、入り口のところに座り込んでいる。世界に残された最後の生命線のように、人一人やっと通れる隙間を開けて彼らは陣形を取っている。そこには誰も何の疑問も生じさせてはいけない、といった暴力的な無言のルールが目に見えるようでもある。
彼らにとって私は自己と他者、といった人類が必ず挑まなければならない命題の対象でさえなかった。私は彼らの一瞥も得ることなく何の抵抗も無く店舗に入ることに成功した。どういうわけか彼らには私からとめどなく流れる砂粒の影響が及ばないようで、彼ら以外には一切の意味を持たない言葉の遣り取りは片時も途切れることがなかった。もしかしたら、彼らは本当に私が今いるこの場所とは全く別の舞台に居て、だからこそ彼らにとって私は眼中にないのではなく、一片の実際に存在していないのではないか、とさえ思えてきた。
しかし、一方ではこの事情が私を救ったと解釈することもできる、つまり、私の発する砂、或いはそれ以外の何かが彼らを刺激することによって生ずる様々な問題は、どんな理由があるにせよ回避されたのである。触らぬ神に祟りなし。遣り過ごせるならそれに越したことはない。
店舗の中には客は誰も居なかったが、店員が2人、偶像のような顔をして偶像のような仕事していた。私は極力精神を平坦に維持して、必要なものだけを購入して帰ろうと心掛けた。上手い具合に砂粒の流出は抑えられ、商品を物色している間に何人か他の客が入ってきたが、彼らにも特に影響を与えることはなかった。最も懸念したことは店舗内が砂まみれになることだったが、どういうわけかここでは空調設備の作り出す人工の流れが、極めて微小なそれらをどこかへ運び続けてくれた。
飲料品を入れた大きな冷蔵庫、その取っ手には少し砂粒が付いたような気もしたが、金を払う際も、また例の奇跡の抜け道を通る時も、外部にこれといった摩擦を生じさせずに、私はビールを手に入れることが出来たのだった。

店舗を出ると、少し薄暗いと言っても差し支えないほどの夜気が、辺りには流れていた。
一応の目的は果たしたので、私の足取りは家を出た時に比べれば十分に軽くなっていた。特に急ぐでもなく、私は微かに砂粒をたなびかせながらゆっくりと家路を進んだ。すれ違う人があっても特に気にすることはない。彼らに及ぶ一時の変化は、砂粒と同様に所詮微細で瑣末な些事であり、塵芥が風に洗われるよりも早く失われてしまう。他者は、私たちが思っている以上に、自分以外の出来事に構うほど暇でも寛容でもないのだった。この不条理でしかし自明の理に対して、私は落涙の所作でも送るのが礼儀だったのかも知れない。と、頬に刺激を感じて、私は空を見上げた。夕立であった。
どうやら、夏という季節が持つ、この水圧という確実な力学に対しては、私の作り出す流れ、または想念、または遊びは全く脆弱であった。結果として私は簡単に打ちのめされて路面いっぱいに打ち広げられてしまった。ビールは袋に入ったまま路肩へ放り出されて、主と同じく雨に打たれている。
通り雨が過ぎて一定の渇きが得られるまで、ここでじっとしている他に手はない。雲が切れれば星も見えるだろう。私は星座を一つも知らないが。

その後。

決戦は滞りなく終わって、あの地震のように、その後の毎日が新しく始まったのだった。あれ以前にはもうどうやっても戻れないし、戻ってはいけないのだった。私が決めたことだ。戻ってはいけない。今なら、まだ簡単だ。しかしそれはご法度である。私は静かに次の波を待つほかない。

こどく。

人恋しい時ほど孤独である(孤立しているわけではない、という点が重要)、というのは、分かる人には分かる背理を含んでいる。だからといって無理に人を求めることはなく、その孤独に纏わる甘い痛みの中で誰にも聞こえない無害の呻きを挙げながら、表面的には静かにいつもの床に就くのである。いずれ咲く日を夢見て。酩酊御免。

そろそろ。

決戦の日を迎えても好い頃だろう。酔いに任せて、というのは避けたいが、何かのきっかけやタイミングは欲しいところでもある。酩酊の先に何が待っているのか、齢30にしても全く何も分からない。めいていを変換したら迷亭と出た。何かに使えるかもしれない。戦って、何かを失わなければ得られないものもある。

はてな記法を忘れた。

はてなを主に使っていた時期は懐かしい。もう10年くらい前になるのだろうか。決まった書き方を忘れてしまった。
いつも現実はわたしを置き去りにして、わたしに甘やかな幻想ばかりを見せるものだから、わたしは惑わぬように足元ばかりを見ている。お陰で遠い未来を見定めることができず、結局黒い渦の中で生活をしているのである。解放を望んでいる。それが新しい束縛であるとも知らず。とは言うものの、束縛が無くなってしまったらわたしはわたしのかたちを保つことができなくなってしまうから、これは一種の呪いである。甘受するしかない。甘受することで、わたしは現実を超えることができるのだろうか。酩酊。

遊興。

やはりはてなは使いやすいという感がある。まあ好い。
久々に深く下らなく落ちているので物を書こうと思う。先程の昼寝に見た夢は久々に最悪であり、私の心持ちの不健康に一役買っている。しかし、ここまで落ちるのは学生の時分以来だろうと思う。やる気が一切起きないのはもちろんだが、体調までもうどうしようもなくなってしまう。これを抜ければその先には、といったような建設的な考えには、もちろんのことなれないのであって。思考は一切まとまらない。

全てがもう終わっても好いのだろう。

と、思う。時もある。夜気は厚く湿気を含んでいる。夜空に雲は吹き流され、月が掛かっている。やりたいことは、大方やったような気がする。引き算に美学を見出だせるほど私の眼は澄んでいないが、安心を覚えることはできる。ゼロ、というのはもう彼岸である。最低限、此岸の中範囲で事を為したいとも思う。せめてもの償いである。誰へ?