どこかの遠くの何かの。

色々な立場があるが言葉を表現の手段のひとつと捉えない人々がいるとすれば、私は彼らとは反対側にいることになる。強い否定を以て彼らの言論を批判するだろう。そこには感情を込めるだろう。私にとって言葉はある形式であり手段である。そこに神格的なものも、道具的な意味に限定されるような意見も、私は持ち込まない。言葉は私にとって全てである。言葉は私である。その一番底辺から天辺まで、私は捉えようとする積りである。輪郭だけでも捕まえる積りである。それは義務ではなく礼儀である。自然である。苦ではないが決して楽な道ではないことを知っている。それは道理である。しかしその作業こそが私の私たる所以であるようにも思う。その一連の装置が私を駆動させているのである。その装置の燃料は言葉である。

真夜中の前後

世間は、いつでも決まって夜に飲み込まれるのであった。
その日は、昼間にたくさんの雷が鳴って、私は部屋の中で湿った暑さと戦いながら無為に過ごしていたのだったが、年代物のアパートの屋根や壁は私を死なない程度に守っているだけであって、それは生活の水準の話であって、私は何も生み出すことなく、失う一方の力学を以って時間を消費しているのである。平等、という言葉の意味を考える。与え「られる」、という文言の意味を考える。
雷に続いて、さほど長くない時間、激しい雨が降っていた。それもいつの間にか止んでいた。取り残された、という感覚はない。天候は、いつでも決まって私の都合になぞ関与していないのだったから。自由、という言葉の意味を考える。無頓着、という言葉の意味と、そこに含まれるある優しさについて考える。
夕方になると、しっかりとした夕焼けが展開している。私は少しだけその風景を、気持ち悪い、と思った。

あらあら。

いや、ある人から指摘があって、で、今読み返してみるとなるほど、と思ったが、いや、別に恋人と別れたとかくっついたとかそういった類の話をしているのではなく、世間一般的な、社会に出ればあたりまえにあるような人間関係の話、ということでね。なんだかすみませんね。

空気。

関係性というのは一度こじれると、大体がもうそこで終わりというか、そっからまた直して、っていうのは大変な労力と時間が要る、というのは当たり前なのだったけれども、まぁ、殊に男女関係なんていうものは、一回終われば基本的にはそれで終わりなのであって、次、ということになる。いろいろ本当に面倒というか、こちらの落ち度もまぁあるのだけれども・・・。
いろいろ疲れたので空想をしようと思う。
荒野、ずっと続いていて、植物や建物は何もない。誰もいない。私は景色を見ているが果たして個体としての私がそこにあるのかは分からない。空は紫色をしていて、あちこちから無数の灰色の雲が垂れ下がって地面に突き刺さっている。無表情の地面。雲が突き刺さっている部分からはたくさんの亀裂が縦横に走っていて、何かのガスが吹き出ている。ガスは虹の色をしている。強い毒であるはずだったがそれはとても綺麗だった。私は近づこうとはしない。自分から危険に近づくほど、私は器用ではなかった。危険のすぐ足元に大きな利得はあるのかも知れなかったが、それは仮定であって、危険はまず危険としての姿を持っているのだった。私は静かに目を凝らしている。遠くでかすかに、何かと何かがぶつかるような音がした。また一筋、雲が地面に突き刺さったのだった。私はその景色を想像する。肉眼ではここからは見えなかった。想像する。そしてめまいと同時に私の頭上に雲が。

思ったので。

ある繋がりがあって、でもそれは普遍ではなくて、状況に応じていつかはなくなってしまったりするのだったけれども、つながりって言うのは環境が変わったりすればまた新たなものが構築されるのであって、そうやって更新されていくものなのだなぁ、と、いや、別に当たり前のことなんだけれども、ちょっと思った。何をちょっと思ったかって言うと、その、もうあまり繋がらなくなった人とか、全然繋がらなくなった、多分もう繋がらないんじゃないだろうか、とか、そういった人たちのことなんかを思ったりした。ずっと繋がっていたくても、こちらにも彼らにもそれぞれに事情って言うものがあって、越えられない現実もある。しかし何にせよ、いろいろな繋がりは大事にしていかないとなぁ。うん。

思ったことを、思ったように書くので。

  • とりあえず、今騒いでるアノ件(具体的に書くといろいろアレなので・・・気弱ですみません)とかに際しても思うのは、あの、原理主義みたいなのはどうにかならんかなー、と。みんな「バカの壁」とか読めば好いのに。無知の知というか。中庸というか。あれじゃあ全然議論にならない。立ってる地平が違うんじゃないだろうか。んで思うのは、やっぱ宗教のこととかで、学生んときはナニナニ教の人たちとかよく勧誘に来たけど、なんでやねんと。アンタらはアンタでやってなさいよ、と。相手の幸せを祈るんであれば、やり方が違うでしょう、と。とりあえず俺に対しては、今ここにアンタらが来てる時点で幸せではないよ、と。ああいった、徒党を組んで何かをする、っていう、或いは新興宗教とか、もうホントああいうのは駄目だ。まぁ、このスタンス自体が原理主義になってしまうので矛盾することにはなるんだけれども、どうしてああいう方に流れるのかが、ちょっと・・・。さらに言えば、○○○○の人たちなんかは、いろいろなところで言われていることが全て真実かどうかは分からないにしても、思うのは「火の無いところに煙は立たない」ってことで。煙が立ったからじゃあ火があんのか、っていったら、それは発炎筒かもしれなくて、あ、アレも一応ちょっと燃やすのか・・・? でもやっぱり、何かきっかけというか火種というか、あるはずで、そういったところを全然認めず、論理のすり替えですらなく、もう全然会話のキャッチボールにならない感じになるのは、ある意味ですごい。外人が見れば日本語の会話として成立しているようで、内容的には全然成立していない、っていう。新しいコミュニケーションの形。全然相手の言うことを理解しようとしないというか、それ以前の。もっと柔軟になるべき。個人でやるのはかまわないけど、それを他人に押し付けたりとかは、ねぇ・・・? 怖いわぁ。
  • いや、別に、そういう人が最近来たとかそういうことはない。ちょっと思ったので。
  • 何か物事があったら、頭ごなしに否定するとかではなくて、まず一回引いて見てみて、悪い面ばっかじゃねぇんだろうけれども、この辺は認めるけど、でも全体的にまとめると、やっぱ俺は駄目だと思う、っていうようなスタンスというかフォーマットというか方針というか、まぁそんな感じが俺は好いんじゃないかと思うよ俺はね。俺はね、というか、まあそうしているところの俺なんですけれども。
  • 表明してしまった。鬼のように恥ずかしいが自分への罰として放っておく。
  • あら、もう少し何かアレしたいようなことがあった気がするんだけど・・・。
  • 思い出したら書こう。