ペットボトル。

帰路、路上にペットボトルの落ちているのを認めた。或いは見止めた。射止めたい。誰かのハートを射止めたい、いとも簡単に、射止められたい。いいともー。という超現実的な空間を、私はそこに体現した。
考えてみれば、ペットボトル、それは500ml容量であり紅茶か何かを内包していた、はただ路上にあったのであり、誰の所業にせよ、いずれの理由にせよ、それは動かざる事実であり現実であって、かのペットボトルには何の罪もない。むしろ擁護せられるべき立場にある彼を、私は強く攻めることができない。彼はきっと今も、あすこの歩道でじめじめした夕方の空気に押し潰されまいと、液体による内圧を保持しているに違いないのである。それを思うと、私の胸は少なからず悲鳴を上げるのである。
彼にとってはそれが現実なのである。超現実。シュールレアリスム。現実を超えるのは誰か。それは私たちである。彼(か)の事象ではない。目の前にある彼らにとってはそれが現実である。現実を飛び越えて、ある種のセンチメンタリズムを感得するのは、やはり私たちである。私たちは、目の前の現実を視点にして、その向こう側にダイヴする。私―現実―向こう側、は等間隔に形成されるものであり、またはそこに美しい放物線を伴うのかも知れない。いずれにせよ、幾何学的で洗練された、過不足のない、スリムな、クールな、そして裏面に滑稽、諧謔、風刺を貼り付けた関係がそこに生まれるのである。
私たちはその産声を聞きながら、新奇なものへの好奇心と、見知らぬものへの不安心をかきたてられ、しかしそんなことはすぐに忘れて、自宅の屋根の下で今日も眠りにつくのである。