ある夜4。

「ある夜4。」というのは、実は何度も書かれていて、時には一定の分量を持った文章も書かれたりしたのだけれども、内容以前に、モチベーションというかそういった文章以前のレヴェルの話で以って、更新はされなかった、というのがその仕組みであった。
なぜこの文章は公にされたのか、それは一言で言えばモチベーションが乗った*1ということであって、と言うか、それ以上のことはない。ただそれだけのことである。
雨が外の全てを濡らしているのであって、路面を行く自動車は、やはり路面を流れる雨水を、あるいはもうそれは雨水ではなくただ路面に溜まっている「水」であったのかも知れないが、乱暴にタイヤで跳ね除けて行くのであって、その音が私の部屋にも充分な音圧を持って届いてくるので、私は雨が降っていることを知ったのであった。
小児の言語発達の本を一冊と、前衛的といえば言えるし、結局分類には困るのだけれども、知識の塊でありながら、軽妙洒脱な文体でそれを薄い膜にしてしまう技術をもった技術者、そういった書き手を持つ本を一冊、同時並行的に読んでいる。
赤子が言語を獲得する過程というのは、一つの物語になる。学者は、その物語が楽しくて研究をするのであろうかとさえ思う。研究は本を読むのに似ていて、研究の楽しさは本を読む楽しさに似ているのかも知れない。学生時代に研究が即ち本を読むことであった*2自分にとっては、今のところ畢竟確認し得ない命題ではあるけれども。
ともかく、その過程というのはとても示唆に富んでいる。何に対して? われわれが世界をどう捉えているか、その一側面を知ることに対して、である。とても整合的に論理的に彼らは、そこには私やあなたももちろん含まれるわけだけれども、綺麗に言葉を獲得してゆくのである。そういった意味で、このある一冊の本は、私に発達学以上の、何かとても有用な意味を与えている。
一方の本。前衛的、というふうに私は分類したいけれども、そういった気取った風情が感じられない点が、この本にかけられた魔法である。エッセイであろうと思うけれども、物語ととっても差し支えない風景がそこにある。フィクションであるかノンフィクションであるか、その議論はここではとてもナンセンスであろう。
前者の本は、30年ほど前に書かれていながら、現代においても沢山の有益さを持っている。一方の、この2000年代になって発行されたソフトカバーの中には、私の胸を静かに躍らせる文章がやはり静かに跳ね回っているのである。どちらも私にある世界を見せることで、私の内側の世界と私の外側の世界の間の境界を曖昧にし、それは無くては困るので完全に消し去ることはないのだけれども、両者に対して上手く折り合いをつけてくれる装置となる点で、共通している。
議論はやや逸れたのかも知れない。ここまで大仰にする必要性は全く無いし、世界、なぞという気取った言葉はまだまだ私には手に余る。恥ずかしさがある。
エアコンから出る冷気が私を撫でる度に、私は鼻炎を発症させるのであり、鼻水*3の止まらなくなるのを我慢しているのである。

*1:モチベーションに対して「乗る」という動詞が適当かどうかという議論は、ここではしないけれども。

*2:それが「研究」であったならば。

*3:医学界では「鼻汁」と書いて「びじゅう」と読むこともあるらしい。