ある年のある夏のある期間について。最終回。

それは紛れもない現実であって、例えば「夢のような日々だった」なぞと、緩い傾斜とゆらゆらした視界を持つような言葉で以って切り取られるある一期間なんていうものは、果てして何の意味や価値があるのか、なぞとも思ってしまうのである。
私は判断や評価や、或いはそれらがないまぜになったような曖昧な価値を持った日々を、夏の照りつける日差しから逃げることも忘れて、全力で謳歌したのかも知れなかった。それはとても静かな歌声であったろう。私は常に冷ややかであったのかも知れない。北極に置かれた白磁器の表面のようにすべすべとしていてひやりとしている、そういった印象がある。
私を取り巻く風景の何を見ていたのか、それは私には最後まで分からなかった。しかし気付けば季節は、夏は、もう去り行く支度をしているのであり、支度をしている時点でもう夏は終わっているのであり、残暑、そんな名残惜しいような暑さも、やがては秋の風に流されて、空には薄い雲が広く夕焼けを反射させている日も、もしかしたら明日にでもやってくる可能性さえあるのである。
肌寒さ。朝晩が長袖を要求するようになる。木々は色付いてゆく。私は相変わらず適当な足取りで、その日その日をそれなりに消化している。日付けは形式的になってしまって久しい。何かの記録を整理するために、継時的に分類してゆくために必要な程度に成り下がってしまった。季節を知るのには、空を見れば、雲を見れば、虫の声を聞けば好かった。ヒトが決めた何かの区切りを見るよりも明らかに簡単にそれらを知ることが出来た。そして、それを発見した時の喜びも何層倍にも増して大きいものだった。
いつの間にか現実は現実としての色を持って始まっていた。それまでの、本当に短かったけれども、曖昧だけれども素敵で詩的で極めて私的な空間からはそろそろ足を踏み出さなければならないのだろう。充分すぎるほどに、私はそれらを享受したのかも知れない。
ありがとう。合掌。