ある夕方1。

電車から見えるコンクリートの地面、縁石、そのほかの何か人為的に固められた地面などを見るにつけて、それらが塗れていないことで、私はここ何時間かの間に雨が降っていないことを確認するのである。それ以外の可能性があったのかも知れない。しかし、私にはそれらを捉える意識が無かったのである。
電車が進んでゆくのは道理だし、駅で停車するのも道理である。夕方の、少し日が翳って、やはり梅雨時の風が空に一様に雲を流したりしていて、私は目的地の天気を気にしている。電車の窓は景色をその枠の大きさに切り取って、屈折と言うのだろうか、光をどうにか調節して整頓して私たちに届けるから、風景の色彩など、私たちが受け取るものとそこにあるものの間にはいくらかの差異があるのかも知れない。とても面白く思われる。
そして、やはりまた電車は進んでゆく。切り取った風景を流しながら、しかしそれは映画のような見え方ではなくて、何と言うのだろう、その見え方の特徴を上手に伝える言葉を私は知らない。流れてゆく風景、そうとだけ言っておいて、あとは伝わるに任せておくのである。100のうち、たった2しか伝わらなくとも、そこに生じた私とあなたの関係性、運動、それらに私は価値を見る。そこに生まれる温度は千差万別かも知れない。限りなく冷たいにせよ、限りなく温かいにせよ、私は火傷をするのである。薄暗い夕方に在っても、私はその火傷の発する光線のお陰で、どこからも、誰からも見付けられることができるのである。