そこに何かを物語る前に。-3-

先に言ってしまうけれども、その緑の箱は私にとって物語であった。文字の世界で言ったならば詩であったのかも知れないが、箱は文字の世界ではなく肉体の世界にあったから、物語たり得る資格を持っていた。あるいは、あの時に、あの3時過ぎに私の目の前に、背後の景色から振り返った私の視界に入ってきたその箱は、その一連の運動を以って物語を始める資格を持ったのである。もちろん、物語になるには、この後に起こる出来事がこの緑の箱にある一定の脚色、彩色、それはとても素朴で単純で幾何学的な図形のように整頓されていたけれども、それらがなくては足りなかったのだったが、やはりその箱は「資格」を「持ってしまった」という点で、他のナニモノからも区別しなければいけなかった。
緑の箱は薄ぼんやりと光っているように感じられた。作業部屋の薄暗い照明と箱の樹脂のような素材の共鳴による作用かも知れなかったが、また小さく明滅しているようにも感じられた。一般的な、極々ありふれた言葉を当てはめるならば「呼吸」をしているように感じられた。簡素で身近で使い古された言葉や表現であっても、ものごとを正確に射抜いていることはある。私はある種の勇気、それは英断という力学を持っていないかも知れないが、それを以ってして、単純な言葉を遣ってゆくのである。
箱に耳を近づけると、最初は何か高い音のするのが聞こえた。もう少し注意深く聴くと、どうやらそれは人の声のように聞こえる。女性、そこまで年齢は高くないという印象がある。僅かだったけれども抑揚があったから、何か意味のある内容を発しているのかも知れなかったが、常にそれはぼんやりとしていて、箱の明滅が自らの輪郭をぼやかしているように、私にははっきりと捉えることができなかった。
私は手元の操作盤のスイッチを押した。何か問題があった時は、ベルトコンベアを止めることを許されている。緊急であれば赤いスイッチを、そうでなければ緑のスイッチを押す。青いスイッチを押すとベルトコンベアはまた流れ出す仕組みになっている。
今は緑のスイッチを押した。緑のスイッチを押すことによって得られる静止の時間は、最長で5分である。5分経つと、何もしなくとも自動的にベルトコンベアは流れ出す。とは言うものの、あまり長い時間滞りを作ってしまうと職場全体の作業に支障が出るので、できるだけ短時間で事を済ませるのが常であった。
私は箱に触れてみる。瞬間、少しだけ強く光ったような気がして、私は手を素早く引っ込めた。指先には、つるつるとしていて、またひやりとした箱の表面の感触が残っている。私は箱を手前に引き寄せて、より注意深く耳を澄ませてみた。箱からの音は、何かを歌っているようにも聞こえた。人の声のように聞こえるからといって、それが人の声であるとは限らない。周波数や共鳴などの、専門的な物理学的な内容には詳しくないけれども、ある条件を満たせば人の声以外の音が人の声のように聞こえることはいくらでもあった。私の仕事は、人の声は人しか発することができないといった類の先入観を全く排してしまう必要があった。必要なのはその音の内容でも意味でもなかった。人の声に聞こえたとして、それが何かメッセージを持っていたとしても、私にはその内容を評価することは許されなかった。私に求められていたのは、その音が安全であるかどうか、つまりその箱が安全であるのかどうかを判断すること、ただその一点であった。
箱から発せられている音、あるいは声はとても心地好いものであった。何を言っているのかはやはり聞き取れなかったが、耳に優しいことは確かだった。単純な優しさであった。全的であるとか、世界の全てを賞賛するとか、何か大きな心象を与えるものではなかった。多くの日本人が主食に米を選ぶ以上の自然さで、私はその音あるいは声を聴いていたのであったが、時間の限られていることも事実であったから、私はこの箱を評価しなければならなかった。
音色が安静だからといって、それが安全であるとは限らなかった。どんなに陽気で軽快な音色であっても、私の心象に一転の曇りを生じさせることはあった。そういった時は容赦なくその箱は排除されなければならなかった。それが私の仕事であった。可能性があれば、弾く。そこから先の更に精密な作業は、また別の人の生業であって私の侵すべき領域ではなかった。
私は心持ちをできるだけ平坦にして、音を、その正体は空気の振動であるのだけれども、その物理的な世界の極々微小の変化を、耳という一連の感覚器を通して脳へと送り届け、もうこの時点で物理的刺激ではなく電気信号に変換されているのだけれども、その正体を捕まえるために、電気信号を一度意識の海に遊ばせる。意識の海には特別な液体が満ちていて、それは夜露のような液体だったけれども、電気刺激は球体になってそこに浮かぶ。着水した時の波紋は音もなくどこまでも伝わってゆく。果てがあるのかどうか、肉眼で確認したことはないから分からない。とりあえず、波紋は幾重にも重なってどこまでも伝わってゆく。
水面はやがて静かになる。すると、安全であれば球体はそのまま浮かんでいる。そうでなければ、沈んでゆく。どこまでも沈んでゆく。底があるのかどうかも、分からない。沈み始めた時点で、私は箱を間引く作業を始めているから、それを確認している暇がないのである。
緑の箱から出ている音は、小さな緑色の球体になって、夜色の水溜りに降りていった。いつもと何も選ぶところはなかった。水面はいつものように波紋を作っていった。そしてやがて、水面は落ち着いた。