ある夜5。

私の範疇を越えた音楽と本を、同時に処理してゆく。私の頭の中の演算機は、簡単にオーバーワークのランプを赤々と点灯させ、けたたましい警報がしばらく鳴り響いていたけれども、もう今は止んでしまった。それらは必要が無かったのだ。そうなることは、つまり、過重は、誰かに何かを伝えるための非常用の装置さえ打ち破って、その先にある快楽に、恐らく現代に存在する最も早い経路と方法を選んで、当たり前のように到達した。
例えば太古、大きいものや姿の好く見えないものに恐怖と畏敬の念を、或いは神格化さえしてきたエピソードに代表されるような、そういった人間のある一側面の存在は確かに謳いあげられるべきなのだけれども、それと同一位相を以って、今私に降りかかっている刺激は、それらは主に言葉と文字など、いわゆる「言語」を中心軸にして、そこには時に音楽が絡まりついているのだったけれども、私は音楽の方面にはクラッシックだろうがロックンロールだろうが*1詳しいことはさっぱり分からなかったのであり、まるで未開の地の人と何ギガバイトもの容量を持った携帯式音楽再生機との間にある関係性のように、どう頑張ってみてもやはり現代の科学ではそれらの間に相関を見ることが出来ないような、そういった階層でもって私には音楽のことは好く分からなかったけれども、文字とか言葉とか、まあ「言語」という、七つの海を合わせても全く太刀打ちできないような広さを持つ言葉にシンボライズされてしまうような領域の、本当に、もう本当に極々一端について、知っているのか知らないのかさえ峻別できないようなレベルだったけれども、多少は造詣があるような顔をずっとしてきたので、まあそういった惰性もあって、私は仮初の自信を持っていたので、それを行使してみて、手許にあるある一冊の本と、耳に届いてくる、まるで呪詛のような甘さと苦さをもった詩、歌、と言えば好いのだろうか、まあ詩と言っておこう、それらの「言語性」とでも逃げて表現するべき刺激は、全く以って真理を私に伝えていた。それは誤解かも知れなかった、というのは、それらの刺激自体に対する回答としては誤解であったかも知れない。解釈という、主観の塊のような概念を設定するならば、そのあまりの曖昧さに私はそれを考える時常に眩暈を禁じえなかったのだけれども、十人十色、千差万別の解釈、まあ、ここで解釈とか主観の話を始めると簡単に私の頭は産業革命を成功させた蒸気機関の4倍の量の蒸気を吐くことになるので止めるけれども、たとえその主体であるところの刺激に対する回答が誤答であったところで、私が真理に到達してしまったのであれば、結果的にそれは正答であり、もちろんこれは結果や過程に対する評価の話であって、やはり刺激に対する「読み」の次元、本に対してであれば読解の次元で私は誤読をしているのだったから、読者としての私は敗北者ということに他ならなかったのであったが、しかし、真理に到達していたと言う点では、私は獲得者であって、それが成功した者であったかどうかはまた別の話だけれども、少なくとも敗北はしていないという点で、私は少なからず安心と満足を感じているのであった。大抵のモノゴトは、私に限って言えば、こうして2面性を持ち合わせていたのであり、それは相反するものであることがほとんど全てだったけれども、そうして反しながらも同居することによってその存在や価値*2を確かなものにして行っていた。だから、一片だけのものは、あまり長いこと続かないのが常であった。そういうように出来ているのかも知れない。やはり、私に限っての話であったけれども。

*1:「だろうが」という語は多分に否定的な要素を容易に含んでしまうので本当に申し訳ないのだけれども、そういった意図は一切なく、ここでは一つの脚色、趣味の悪い暴力的な装飾、それは思春期を迎えたばかりの男児が自分の弱さを隠蔽する際に使う虚勢にも似た、一種微笑ましい護身術として見守っていただけるとありがたい。重ねて、否定的な意味は無い、と言うことを加えておく。

*2:存在価値、ではなくて。